内田裕也さん逝く。 樹木希林さんの死から半年、 ロックな伝説を振り返る
ロック歌手で映画俳優としても活躍した内田裕也(うちだ・ゆうや、本名内田雄也)さんが17日5時33分、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。79歳。兵庫県西宮市出身。17年11月に脱水症状で倒れてから車椅子生活を余儀なくされていた。18年9月15日に妻で女優の樹木希林さん(享年75)に先立たれ、喪失感が消えない中での死となった。都知事選出馬など常に話題を提供し続けたロック界のカリスマだった。葬儀は近親者のみの家族葬で執り行い、後日お別れ会を執り行う。朝のニュース速報でとても驚きました。 内田裕也さんの妻、樹木希林さんが亡くなられて 相当ショックを受けていた、という話もあったので心にぽっかりと穴が空いてしまい、 生きる気力が減退してしまったのではないか、と妻と朝に話をしました。 常に寄り添いあう夫婦のどちらかが亡くなると、 もう一方もすぐに亡くなってしまった、という話はよくある話です。 人間だけでなく、飼い主を失ったペットでも同様の話を聞きますね。 私は普段は妻と喧嘩ばかりで、たまには一人になりたい、妻がいなくなればいいのに、なんて思ったこともありますが、実際にいなくなったら妻の小言をもう一度聞きたくなるのかな、と考えながら今日の朝を過ごしました。 この記事では、内田裕也さんの軌跡を辿るとともに、 樹木希林さんとの別居婚や、日本のロックと内田裕也さんの関係、伝説となった都知事選の政見放送、内田裕也さんと内田也哉子さんとの関係について、書きます。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190318-00000001-spnannex-ent
ロック歌手で映画俳優 内田裕也とは?
内田裕也さんといえば、特徴的な髪型とサングラス、「ロックンロール」「よろしく」と言った言葉、そして樹木希林さんとの奇妙な夫婦関係ですよね。 どんな人生を歩まれてきたのか、ざっと振り返ります。生年月日
1939年11月17日生まれ、身長174センチメートル。血液型はB型。主な経歴
1959年: 日劇ウエスタンカーニバルで本格的にデビュー、以降ロック歌手として活躍 1973年: 樹木希林さんと結婚 1970年代後半 : 映画俳優としても活躍 『コミック雑誌なんかいらない!』 『魚からダイオキシン!!』が評判になる 1981年: 離婚届を提出するが樹木希林さんが認めず 1991年: 都知事選に出馬 政見放送で「パワー・トゥ・ザ・ピープル」をアカペラで歌う 1995年: 娘の内田也哉子さんが本木雅弘さんと結婚 2014年: 指原莉乃とデュエットをした曲「シェキナベイベー」を発売 2018年: 樹木希林さん亡くなる 2019年: 内田裕也さん亡くなる デビューが20歳と早く、それから50年以上ロックな人生を送られてきたのですね。 内田裕也さんは俳優としても活躍されて、自ら監督・脚本もつとめた『コミック雑誌なんかいらない!』 『魚からダイオキシン!!』が評判になったとのこと。 指原莉乃さんとのデュエットもしていたなんて驚きですね! 内田裕也さんといえば、人生そのものがロックンロールといっても過言ではありませんが 日本のロックにおける内田裕也さんの功績をもう少し探ってみましょう内田裕也とロックンロール ジェフ・ベックを日本に呼んだ!?
内田裕也さんはデビュー後にベンチャーズやビートルズの影響を受け、ロックンロールに傾倒をしていくようになります。 1966年6月のビートルズ日本公演では、ビートルズの前座として出演されたことも大きな話題になりました。 (尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドで出演) いかりや長介、加藤茶、仲本工事、高木ブーのドリフターズもビートルズの前座として出演したことは有名ですよね!(志村けんはまだ加入をしていません) また同時期に沢田研二を要するザ・タイガースをスカウトしたことも有名な話です。 その後も精力的にロック歌手として活動をしていきながら、 1974年8月にワンステップフェスティバル、1975年8月に第1回ワールドロック・フェスティバルを主催し、、ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズなどの来日に尽くしました。 1973年12月から2014年まで計42回開催された、年越しロックイベント「ニューイヤーズワールドロックフェスティバル」には 様々なロックアーティストが出演をしています- シーナ&ザ・ロケッツ
- キャロル
- RCサクセション
- アナーキー
- THE MODS
- ルースターズ
- ロッカーズ(俳優の陣内孝則がボーカル)
- BOOWY
内田裕也と樹木希林の奇妙な結婚生活とは?一緒に暮らしたのは1年だけ?
内田裕也さんの妻といえば、言わずもがな昨年に亡くなられた樹木希林さんですよね。 樹木希林さんとの馴れ初めや、結婚生活など気になったので調べてみました。内田裕也と樹木希林の結婚、馴れ初めやプロポーズは?
内田裕也さんの友達であるムッシュかまやつさんが出演しているドラマの現場を覗いた時に樹木希林さんに会ったのだとか。結婚された当時、樹木希林さんではなく「悠木千帆」さんでした。 ちなみに、樹木希林という芸名の由来は 「樹や木が集まり希(まれ)な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」ということを連想し、自ら樹木希林に決めたのだそう。 さらに、旧芸名の悠木千帆を競売にかけて売ったとのことで、樹木希林さんらしいですよね。 お互いが一目惚れで勢いで結婚した、という話もあります。 出会ってから5ヶ月で結婚した、とのことなので本当のようですね。 プロポーズの言葉は見つかりませんでしたが、ロックンローラーらしい言葉だったのでしょうね。結婚式は挙げたの?
結婚式は新郎新婦ともジーパン姿という出で立ちで、 当時では型破りな結婚式として話題になったようです。今でも結婚式にジーパン姿のカップルなんていませんから、相当当時は珍しかったと思います。 また樹木希林さんは婚姻届を、内田裕也さんの分も自分で書いて提出したと語っています。とてもユニークはご夫婦ですね!一緒に暮らしたのは1年だけ?
内田裕也さんと樹木希林さんの夫婦エピソードで有名なのはなんといっても「別居婚」です。 結婚してから1年半後の1975年に樹木希林と夫の内田裕也とは別居をしています。 なぜ別居をしたのでしょうか。 別居の原因は内田裕也さんの樹木希林さんへの暴力が原因で、 夫の暴力から逃れるため樹木希林さんは別居をしたとのことです。 インタビューで内田裕也さんは「ロックな性格なので、なかなか他人と一緒に生活をしていくのは難しい」との発言がありました。 結婚式のジーンズのエピソードにもあったように、縛られることのない内田裕也さんは 結婚生活が窮屈になってしまったのでしょうね。別居婚中の生活費について
お二人ともドラマ、バラエティ、音楽にと活躍をされていたので 一般の夫婦と違い別居とはいえども金銭的には困っていなかったように推察します。別居婚中の夫婦生活について
別居は結局お互いが亡くなるまで続いたので、50年以上は別居婚でした。 なぜ離婚をしなかったのでしょうか。別居中の内田裕也さんと樹木希林さんの夫婦仲はどうだったのでしょうか? フジテレビのボクらの時代に樹木希林さんが出演されたときに 離婚をしない理由や、内田裕也さんとの仲についてこのように語っていましたそれでも別れない理由について、樹木は強い口調で「これはねぇ、いい重石になってるの」と持論を展開。 自他ともに認める「けんかっ早い」性格を抑えるため、結婚生活を続けているという。 その結果「わりかし野放図になっているんだけども、時々(怒りが)収まってくる」と話し、 「重石」の効果はあるそうだ。 樹木は、夫について「世の中面白くなくなっちゃったから、ああいう破天荒な人の方がいい」 「どんな男の人ともうまくやっていけれないもの」ともコメントし、他2人をうなずかせていた。 フジテレビ ボクらの時代の一コマより引用とありました。世の中に1万組の夫婦がいたら1万通りの生き方があるように、 内田裕也さんと樹木希林さんは別居とはいえでも特別な関係だったのでしょう。 お二人の仲は悪くなかったとも言われています。 結婚39年目だった2011年4月にはリクルートの結婚情報誌「ゼクシィ」のCMに夫婦そろって出演したことが話題になりましたが、その中でのやり取りからお二人の仲が垣間見えます。 福山雅治さんの「家族になろうよ」のメロディにのせて樹木さんが「結婚のいいところって何でしょうね」と語りかける。 そして、内田が「ロッケンロール!」と叫ぶ姿に「こればっかり」と樹木さんが答えるやり取りにお二人の素晴らしい関係がうかがえますね!
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